2013年07月16日
南蛮寺跡
布袋山の会所のすぐそばにある南蛮寺跡
1576年頃に建てられた都の南蛮寺の正式名は「被昇天の聖母教会」。
当時日本に建てられた教会堂の中で最大級の規模のもので、オルガンティノ指揮の元に建設されましたが、その後1587年に豊臣秀吉により破壊されたそうです。
この教会堂は、狩野宗秀筆の扇面洛中洛外図六十一面中「都の南蛮寺図」によって、建物を特定した絵画資料が残る唯一の例とのこと。
塩原先生が講義で紹介なさってらした本。
布袋山さんでも売られていました。
そしてなんとこのお方が筆者の杉野さん
まぁ〜、筆者自らご販売。ご苦労様です。
本を片手にはいポーズ
記念にお写真撮らせて頂きました。ありがとうございました。
「都の南蛮寺図」の扇も販売されています。
1576年頃に建てられた都の南蛮寺の正式名は「被昇天の聖母教会」。
当時日本に建てられた教会堂の中で最大級の規模のもので、オルガンティノ指揮の元に建設されましたが、その後1587年に豊臣秀吉により破壊されたそうです。
この教会堂は、狩野宗秀筆の扇面洛中洛外図六十一面中「都の南蛮寺図」によって、建物を特定した絵画資料が残る唯一の例とのこと。
塩原先生が講義で紹介なさってらした本。
布袋山さんでも売られていました。
そしてなんとこのお方が筆者の杉野さん
まぁ〜、筆者自らご販売。ご苦労様です。
本を片手にはいポーズ
記念にお写真撮らせて頂きました。ありがとうございました。
「都の南蛮寺図」の扇も販売されています。
2013年07月16日
八坂神社・大政所御旅所
この間の塩原先生の講習会でも取り上げられていました“大政所御旅所”
かつての御旅所で神輿の渡御があったところ。
秀吉の命により御旅所は現在の位置(四条寺町)に移転したそうです。
何度となく通っているところですが、今回は“祇園祭”ということで写真アップしました
かつての御旅所で神輿の渡御があったところ。
秀吉の命により御旅所は現在の位置(四条寺町)に移転したそうです。
何度となく通っているところですが、今回は“祇園祭”ということで写真アップしました
2013年04月13日
鳥羽伏見戦跡・小枝橋・鳥羽離宮公園
今日は京都市の南のエリアに足を延ばしました
地下鉄「竹田」駅から徒歩15分。
京都検定でもお馴染みの「鳥羽伏見戦跡」
かつての小枝橋の東側、鳥羽伏見戦跡の石碑があります。
旧小枝橋風景図
〜小枝橋について〜
その昔京都(平安京)への渡り口である小枝橋はいい伝えによりますと抗を打った上に板を渡した木の橋であり、その後昭和のコンクリートの橋が出来る迄は土を固めた土橋であったと伝えられています。この橋は京都が都と云われた時代には重要であり、当時大阪(浪速)に渡来した大陸からの文化はすべてこの橋を渡って渡来して来たものと思われます。当時庶民にとっては何かにつけて都は憧れであり、西方からの旅人はこの橋迄たどりつく事により安堵したとの事です。そして以前は時により鴨川が氾濫して橋が流された様です。又、明治維新や日本赤十字の創設の原因を作った戊申戦争の戦端が開かれた場所でもあります。
昭和に入って交通機関の発達する迄は小枝橋を荷車や歩行の人々が利用していました。現在は地元民や伏見地域の人々は元より東西南北の通過橋としてかけがえのないふれあいとコミュニケーションが保たれる橋として役立っています。
橋長・・・123m
全幅員・・・5.3m
撤去年月・・・2002年3月
新しく架け替えられた小枝橋は、元の位置から少し上流にあります。
鳥羽離宮公園
鳥羽殿・築山跡の遺構と考えられている「秋の山」に建つ「鳥羽伏見戦跡碑」
鳥羽伏見の戦 勃発の地 小枝橋
鳥羽・伏見方面戦闘図
こんな形で幕府軍(徳川幕府・会津・新撰組)と官軍(薩摩・長州・土佐藩)が戦ったのですね。
大河ドラマ「八重の桜」でもそのうち出てくる場面なのでしょう。
八重さんの弟の三郎さんの勇姿がどのように描かれるのか・・・・あぁ
戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の勃発地。
この地で戦いの火蓋が切られた考えるとなんとも身につまされる思いがします。
私が生まれる100年前の出来事。
地下鉄「竹田」駅から徒歩15分。
京都検定でもお馴染みの「鳥羽伏見戦跡」
かつての小枝橋の東側、鳥羽伏見戦跡の石碑があります。
旧小枝橋風景図
〜小枝橋について〜
その昔京都(平安京)への渡り口である小枝橋はいい伝えによりますと抗を打った上に板を渡した木の橋であり、その後昭和のコンクリートの橋が出来る迄は土を固めた土橋であったと伝えられています。この橋は京都が都と云われた時代には重要であり、当時大阪(浪速)に渡来した大陸からの文化はすべてこの橋を渡って渡来して来たものと思われます。当時庶民にとっては何かにつけて都は憧れであり、西方からの旅人はこの橋迄たどりつく事により安堵したとの事です。そして以前は時により鴨川が氾濫して橋が流された様です。又、明治維新や日本赤十字の創設の原因を作った戊申戦争の戦端が開かれた場所でもあります。
昭和に入って交通機関の発達する迄は小枝橋を荷車や歩行の人々が利用していました。現在は地元民や伏見地域の人々は元より東西南北の通過橋としてかけがえのないふれあいとコミュニケーションが保たれる橋として役立っています。
橋長・・・123m
全幅員・・・5.3m
撤去年月・・・2002年3月
新しく架け替えられた小枝橋は、元の位置から少し上流にあります。
鳥羽離宮公園
鳥羽殿・築山跡の遺構と考えられている「秋の山」に建つ「鳥羽伏見戦跡碑」
鳥羽伏見の戦 勃発の地 小枝橋
鳥羽・伏見方面戦闘図
こんな形で幕府軍(徳川幕府・会津・新撰組)と官軍(薩摩・長州・土佐藩)が戦ったのですね。
大河ドラマ「八重の桜」でもそのうち出てくる場面なのでしょう。
八重さんの弟の三郎さんの勇姿がどのように描かれるのか・・・・あぁ
戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の勃発地。
この地で戦いの火蓋が切られた考えるとなんとも身につまされる思いがします。
私が生まれる100年前の出来事。
2012年10月23日
六勝寺跡
六勝寺概略図
六勝寺推定復原図
白河院
白河院・法勝寺跡
尊勝寺跡
延勝寺跡
成勝寺跡
円勝寺跡
最勝寺跡
残念ながらお写真なく・・・碑がないようです。
六勝寺のこみち
この二日間で六勝寺の史跡を回りました
六勝寺推定復原図
白河院
白河院・法勝寺跡
尊勝寺跡
延勝寺跡
成勝寺跡
円勝寺跡
最勝寺跡
残念ながらお写真なく・・・碑がないようです。
六勝寺のこみち
この二日間で六勝寺の史跡を回りました
2012年10月23日
西八条第跡(にしはちじょうていあと)
平家ゆかりの地を訪ねて・・・・
平清盛の邸宅である西八条第は、八条亭とも呼ばれ、平安京左京一坊の八条大路(現在の八条通)以北、大宮大路(現在の大宮通)以西に位置します。6町以上を占めていましたが、広大な邸が存在していたのではなく、町単位で殿舎が独立していたようです。『平家物語』によると、清盛が蓬を愛し庭に植えていたことから「蓬壺」ともいわれていました。出家後の清盛は、摂津福原(神戸市兵庫区)にいることが多かったので、清盛の妻・時子が女主としてここを守りました。
治承3年(1179)12月16日には清盛の娘・建礼門院徳子が生んだ東宮言仁親王(後の安徳天皇)が西八条第に行啓。養和元年(1181)閏2月4日、清盛が64歳で没した2日後、放火による火災に遭い、寿永2年(1183)7月25日、平家都落ちに際しては、自ら火を放ち焼亡してしまいます。
現在地でいうと西八条第は、梅小路公園とJR東海道線と山陰線の線路敷地にあたり、往時をしのぶものは何もありませんが、梅小路公園の中には上の写真のような説明板が立てられています。説明板によりますと西八条第の調査は、梅小路公園整備前の平成4・5年に行われ、柱跡、溝跡のほか、平安時代後期の土器とともに焼土や、炭化遺物も出土し、火災があったことを裏付けているそうです。
平清盛の邸宅である西八条第は、八条亭とも呼ばれ、平安京左京一坊の八条大路(現在の八条通)以北、大宮大路(現在の大宮通)以西に位置します。6町以上を占めていましたが、広大な邸が存在していたのではなく、町単位で殿舎が独立していたようです。『平家物語』によると、清盛が蓬を愛し庭に植えていたことから「蓬壺」ともいわれていました。出家後の清盛は、摂津福原(神戸市兵庫区)にいることが多かったので、清盛の妻・時子が女主としてここを守りました。
治承3年(1179)12月16日には清盛の娘・建礼門院徳子が生んだ東宮言仁親王(後の安徳天皇)が西八条第に行啓。養和元年(1181)閏2月4日、清盛が64歳で没した2日後、放火による火災に遭い、寿永2年(1183)7月25日、平家都落ちに際しては、自ら火を放ち焼亡してしまいます。
現在地でいうと西八条第は、梅小路公園とJR東海道線と山陰線の線路敷地にあたり、往時をしのぶものは何もありませんが、梅小路公園の中には上の写真のような説明板が立てられています。説明板によりますと西八条第の調査は、梅小路公園整備前の平成4・5年に行われ、柱跡、溝跡のほか、平安時代後期の土器とともに焼土や、炭化遺物も出土し、火災があったことを裏付けているそうです。
2012年10月23日
俊寛僧都の碑
大河ドラマ「平清盛」の今度の回(10月28日放送)は「鹿ヶ谷の陰謀」ですね。
なのでどうしてもここには行きたくなってしまいました
この奥に「鹿ヶ谷の陰謀」と称される謀議が行われたとされる俊寛の山荘があります。
(霊鑑寺のすぐ脇の道です)
少し坂道を登ってみたのですが雨もとてもひどかったので私はここでダウン
この奥に「俊寛僧都忠誠之碑」が建っていて山荘跡地があるそうです。
京都一周トレイルのコースにもなっているのだとか。
その後は岡崎の方まで戻ってきて、満願寺に伺いました。
洛陽十二支妙見めぐりのひとつで、辰(東南東)にあたり「岡崎の妙見さん」と呼ばれているそうです。
俊寛僧都故居之碑
最近では「鹿ヶ谷の陰謀」は平清盛がでっち上げたとされる説も出て来ているそうで「鹿ヶ谷事件」と言われることもあるのだとか。
本当のところはどうだったのでしょう。謎ですよねぇ。
なのでどうしてもここには行きたくなってしまいました
この奥に「鹿ヶ谷の陰謀」と称される謀議が行われたとされる俊寛の山荘があります。
(霊鑑寺のすぐ脇の道です)
少し坂道を登ってみたのですが雨もとてもひどかったので私はここでダウン
この奥に「俊寛僧都忠誠之碑」が建っていて山荘跡地があるそうです。
京都一周トレイルのコースにもなっているのだとか。
その後は岡崎の方まで戻ってきて、満願寺に伺いました。
洛陽十二支妙見めぐりのひとつで、辰(東南東)にあたり「岡崎の妙見さん」と呼ばれているそうです。
俊寛僧都故居之碑
最近では「鹿ヶ谷の陰謀」は平清盛がでっち上げたとされる説も出て来ているそうで「鹿ヶ谷事件」と言われることもあるのだとか。
本当のところはどうだったのでしょう。謎ですよねぇ。
2011年10月15日
舎密局跡(せいみきょくあと)
舎密局跡
京都検定にはよく出てくるキーワード「舎密局」
京都府が1870年に設けた勧業教育施設で、舎密局とはオランダ語の
「シエミストリ」(化学)のあて字ということです。
舎密局跡
住所:京都市中京区夷川河原町東入ル
京都検定にはよく出てくるキーワード「舎密局」
京都府が1870年に設けた勧業教育施設で、舎密局とはオランダ語の
「シエミストリ」(化学)のあて字ということです。
舎密局跡
住所:京都市中京区夷川河原町東入ル
2011年10月15日
木戸孝允旧邸跡・達磨堂
折角「職員会館かもがわ」まで来ましたので、すぐお隣の木戸孝允旧邸へ。
今年の夏の旅で特別公開されていましたね。
残念ながら私は夏旅には伺えませんでしたが、回りをくるりと散策。
病床にあった孝允を見舞う為に明治天皇が行幸された由緒ある場所です。
木戸孝允の子息・忠太郎が大正12年に建てた達磨堂
忠太郎の数万点に及ぶ壮大な達磨コレクションが収蔵されているそうです。
どちらも普段は非公開なので拝観することが出来ませんが、
また特別公開の機会がありましたら伺ってみたいところのひとつです。
石長さん側にも石碑があります。
木戸孝允旧邸・達磨堂
住所:京都市中京区土手町夷川上ル末丸町284
今年の夏の旅で特別公開されていましたね。
残念ながら私は夏旅には伺えませんでしたが、回りをくるりと散策。
病床にあった孝允を見舞う為に明治天皇が行幸された由緒ある場所です。
木戸孝允の子息・忠太郎が大正12年に建てた達磨堂
忠太郎の数万点に及ぶ壮大な達磨コレクションが収蔵されているそうです。
どちらも普段は非公開なので拝観することが出来ませんが、
また特別公開の機会がありましたら伺ってみたいところのひとつです。
石長さん側にも石碑があります。
木戸孝允旧邸・達磨堂
住所:京都市中京区土手町夷川上ル末丸町284
2011年10月15日
七条仏所跡(しちじょうぶっしょあと)
平安時代中期に活躍した仏師・定朝(じょうちょう)をはじめ、
その一族・子弟・子孫が室町時代まで500年も居住して彫刻に励んだ「仏所」
定朝の子とされる覚助を師とする慶派の「七条仏所」
京都検定のテキストにもあるので、とても気になっていました。
近くまで来たので折角ですから寄ってみました
鎌倉時代、この仏所からは運慶、湛慶、快慶ら優れた仏師が輩出されました。
そう思うとただの看板じゃないんだなぁ〜としみじみ。
七条仏所跡
住所:京都市下京区七条通河原町西入材木町
その一族・子弟・子孫が室町時代まで500年も居住して彫刻に励んだ「仏所」
定朝の子とされる覚助を師とする慶派の「七条仏所」
京都検定のテキストにもあるので、とても気になっていました。
近くまで来たので折角ですから寄ってみました
鎌倉時代、この仏所からは運慶、湛慶、快慶ら優れた仏師が輩出されました。
そう思うとただの看板じゃないんだなぁ〜としみじみ。
七条仏所跡
住所:京都市下京区七条通河原町西入材木町
2011年06月18日
宇治十帖モニュメント
雨もすっかり上がってきました。
宇治川の朝霧橋横にあるモニュメント
匂宮が浮舟を抱いて小舟で漕ぎ出す、有名な場面をモチーフにしているのだそうです。
近くに寄ってみると
先程の雨で、なんだかお二人とも泣き顔になってます
なんだかとってもリアル
しかも匂宮さま号泣
浮舟さまも・・・なんともはかなげ
お話があるだけに、見ていてとてもせつなくなってしまいました。
しかし、よく目をこらしてみると、お顔に蜘蛛の巣が がーん。
もしかして、蜘蛛の巣姿を嘆いておられるのですか?
宇治川の朝霧橋横にあるモニュメント
匂宮が浮舟を抱いて小舟で漕ぎ出す、有名な場面をモチーフにしているのだそうです。
近くに寄ってみると
先程の雨で、なんだかお二人とも泣き顔になってます
なんだかとってもリアル
しかも匂宮さま号泣
浮舟さまも・・・なんともはかなげ
お話があるだけに、見ていてとてもせつなくなってしまいました。
しかし、よく目をこらしてみると、お顔に蜘蛛の巣が がーん。
もしかして、蜘蛛の巣姿を嘆いておられるのですか?